さすらいライター、みずぐちもとゆきが綴る日常と非日常

2016年7月11日 未来はみえるか

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この1か月ほど、未来のことについて考える機会に恵まれた。

だれと、どこで、なにをしながら、生きていくんだろう。
その時、まわりの人は、この町は、この国は、この世界はどうなっているんだろう。

 

最近のぼくは、朝起きて、ラジオを聞きながら本を読む。自転車で本屋にいって、仕事をする。帰りに喫茶店でおいしい珈琲を飲みながら、マスターと他愛もない話で盛り上がる。そして帰って寝る。

ほぼそんな毎日を過ごしている。

でも、いつまで続けられるのだろうか。
昨日とおなじ今日が来なかったように、今日とおなじ明日は来ない。
それでもおなじような充実した毎日を送りたいのであれば、そのために守りが必要かもしれない。

 

ある時、父が言っていたことが時々思い出される。

「維持することはなにもしないことではない。たくさん頑張らなければならない。もしなにもしていなかったら、維持なんてできないんだ。」

前後の話を全く覚えていないが、このくだりだけ妙に覚えている。
なにかとうるさかった父親だけど、ぼくら家族がなんでもない穏やかな毎日を過ごすために、それこそ毎日仕事をしているのかと思うと、感慨深い。

 

今日とおなじか、あるいはそれ以上の明日を迎えるために、ぼくに何をしてきただろう。何ができるだろう。

 

この春にリニューアルした新潮社の「考える人」。その冒頭に鷲田清一がこんなエッセイを寄せている。

いままで歩んできた時代が、いま終わろうとしていて、新しい局面を迎えている。
そんな時代に私たちは「先が見えない」というが、むしろそれは確実にやってくるだろう不都合な未来を知りながら、答えを出せていないためでないか、と指摘する。問を考えれば、それだけ問が出てくるいまにおいて、必要とされるのは「できるだけ長く、答えが出ない、出せない状況の中にいつづけられる肺活量をもつこと」だと彼は記す。

 

考えすぎだと言われ続けてきたぼくがいうのはおかしいかもしれないが、考えることは体力がいる。そして孤独だ。
早急に結論を出して問うことがなければ、そこには「同じ意見」をもった仲間がいて、違う意見の人とは対立すればいいから、実はそのほうが楽である。

 

ぼくはいま密かに、世間はもっと迷えばいいと思っている。
簡単に出した結論が正しいととても思えないし、それを盲信することはとても怖い。


だからといって、問い続けることは簡単じゃない。だから少しでも楽に、楽しく、肺活量を鍛えながら、毎日を過ごしたい。

なにも手放しに安心できる未来なんて来ないかもしれないけど、ぼくが過ごす日々のちょっとしたところで「知的体力」を鍛えていきたい。そしてそこにおなじように問い続けてくれる仲間がいることを願う。